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yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

小説 天使の赤褌 2 

    天使の赤褌 2

      

小説 

     天使の赤褌         

                     今田   東



     8

 薬草と言ってもすべての植物は動物に取って毒を持っていた。その毒の部分が薬の成分になるのだ。それが漢方の始まりだと書いてあった。
未開のジャングルで今病気で苦しみ死んでいく人達に有効な成分を持つ植物が存在する、そのために奥地へ押し入り探して人間の生命を長引かせるために見つけ出そうとしているのだ。
江戸時代には日本人は野菜を生では食べなかった、毒を取り除き緩和させるために火を通していた。植物に含まれる栄養素より毒を避けたという事だ。この事は守山から聞いたことだった。
「薬草は昔の人達が長い年月をかけて見つけたものですけえ、そのためにはぎょうさんの人が死にました。代々何を薬として煎じればいいか、飲めばいいのかを言い伝えで残してきたものですけえ」
 守山は広い畑に植えられた色々の薬草を見ながらそう言った。
 今のように分析をして成分分析をして効用を見つけることが出来なかった時代だった。それなのにその成分が何の病に効くのかを知っていたのだ。人間は英知の塊なのだと思った。
 大木田はため息をついた。
「旦那、あいている処へブロッコリーとキャベツを植えようと思うとりますがどんなものでしょう」
「ビタミンCですね」
 大木田はその事は知っていた。
「へい、予防として体のかなに入れとくといいようなので…」
 土に生きてその効用は知っているのだろうと大木田は受け止めた。。
 土地は小分けに区分されて色々の種類が植えられていた。
「大きくあるまでに虫に食われるものも出てきましょぅ、それは人間が食べても害は少ないでしょうから、それも基準として観測していますが・・・」
「助かります、今その方の勉強もできないのでお任せします。存分に思いのままにやってください」
「最近、若い娘が、ああ、先生のお弟子さんとか、由美さんと言ったかな、よくここへきて色々と尋ねられて・・・」「邪魔をしている」
「いいえ、大きく育つ食物を観察しているようです。みんなの役に立てはどんなにいいでしょうか、といいながらながめているのですよ」
「ほほう・・・」
「・・・」
「聞きたいですか、押し掛けの弟子と言っていますが、私の知っている事を少し教えているだけです」
「まるで山桜のようですな」
「だったらやがて散るでしょう」
「来年も咲くかも知れません」
「植物は人間より強いから、自然と一体になって生きていますからね・・・来年も咲きますか」
「わしも少し勉強のために外にでて研究と言うのか勉強をしたくなりましてな、見に行ってもいいと思っていますのじゃ。どうでしょ」
「それは、止めませんよ」
「先生が来てくれて、今までと違った生きがいが生まれましてな、知らなかったものを知る喜びとでも言うのでしょうかな」
 大木田はなぜか腹を抱えて笑いたい衝動に取り憑かれていた。
 守山は溌剌として見えた。

 由美は学校から帰って大木田の書斎を片付けていた。
大木田はそれを見てこの子もいい子なのだと思った。
「先生、お帰りなさい」
 由美はにっこりと笑って言う。
「何時も言っているように、片づけなくていい。私にはこの雑然としている空間が一番居心地いいのだから」
 大木田は椅子に座りながら言った。
「私は、書斎の匂いが好きなのです。本の匂いと先生の・・・」
 由美は俯いて言った。その表情に少女ではなく女を感じたのは何かの錯覚だと大木田は打ち消そうとした。
女は男の匂いに敏感になる。十七歳の少女から大人になっていると感じた。
「書けているのかな・・・」
「いいえ」
「そうか、まあゆっくりと書けばいい、出会いがなにければ別れは書けないかも知れない。が、人間の想像力はなにもないところから生みだすことが多い。私が君に求めているのは実際にあったことではない、頭の中に創り上げる虚構なのだ」
「そんな才能はありません」
「だが、書きあげたい、なにをすればいいのかが分からない。書く、創作することで一番大事なのは君の生活なのだ。そこから総ては始まってくる。若い君にはこのテーマは難しいかも知れないが、その事、別れを考えることによりこれからの君の人生は少しは変わるかも知れないと思う」
「・・・」
「君は私と出会った、出会う事は常に別れがその先にある。これから君がどのような人生を過ごすか知れないが、別れに涙を流すより、出会ったことの喜びに感謝することが出来るようになることが大切なことだ。それを考えてほしいから別れを書かそうとしたのだ」
「先生、泣いてもいいですか・・・」
「構わない、ものを書き表現するものはまずじぶんに素直でなくてはならない。その素直さがなくては嘘を書くことはできないのだよ。それは嘘を書く書き手の免罪符なのだからな」
「先生、抱いて貰っていいですか」
「それが今の素直な心なら…」
「私は父のぬくもりを知らずに大きくなったのです。うれしい時に、そのぬくもりが・・・」
 由美は大木田の胸に飛び込んできた。
 父親が娘を抱くように受け止めていた。
 大木田は由美の頭を軽くいだいて諭すように言った。
「別れ、そこにあるものは人をいとおしむ、愛すると言う気持ちが存在するものだ。それは非常に複雑で簡単には理解できない心の問題でもある。生きると言う事はその連続なのかも知れない。だからドラマが生まれる。それは虚構の世界として書かれ存在している。ドロドロとしていて醜く汚い世界でもある。人は愛することで別れを経験し、それを糧にして成長すると言える。君が生きていく過程でそれらを避けては通れないことだ。私が別れに涙するより、その出会いに喜びの涙を流せと言ったのも、そう思う事で心が安らぐからだ。人が生きていく上では愛と言う不確かな存在が立ちはだかり行く手を遮ることが多い。その事も知ってこれから君の人生を歩んで欲しいという事なのだ」
 由美にこの言葉が通じるだろうかと思いながら言った
。木の芽立ちのような由美の香りが鼻腔をくすぐっていた。
「なんだか分かるような気がします。でも、なんだか怖い」
 由美はしがみついて離れようとしなかった。
「みんな怖いと思い通り越して来たのだ。それを解決してくれるのは君自身だが、周囲の人達との出会いでそれは解消されることなのだ。
 少し難しい事を言ったが、みんなが経験し乗り越えれるものだ。別れが書ければ、それがわかれば別れは書けるようになる」
「そんなに難しい事を書かそうとしていたのですか、ひどいひどい・・・」
 由美は大木田之胸を叩きながら睨んでいた。
 この想いを繰り返し繰り返さないと人は理解できないし、その人たちを書くことはできないことなのだ、と大木田は言いたかったのだ。
「これから少し足を延ばして空港へお粥でも食べにゆくか」
 大木田は話をそらすように明るく言った。
「うん・・・でも先生の胸は温かい、もう少しこのままでいたい」
「不良少女になったりお嬢さんになったりすねたり甘えたり、元演劇部は忙しい…」
「いいえ、これは演技ではありません、素直な気持ちです」
「さぁ、タクシーを呼んで、ゆくよ」
 大木田は由美を押し返して言った。
「帰ったら、続きをしてください」
 由美はそう言ってはなれた。 
 山間をタクシーは走っていた。初冬の季節とは言え少し肌寒さを感じた。すっかりこの葉
を散らし寒そうに裸木が続いていた。
 由美はぼんやりと移りゆく景色に目を投げていた。
「先生、なんだかおかしいのです…」
 由美はそのままの姿勢で言葉を落とした。
「なに、どうしたの」
「体が温かくて、胸がどきどきして・・・」
 女になっている、大木田はそう思った。異性への好奇心が今現実のものとして由美を襲っている事を思った。
「それも人間としては正常なことだ。成長する、少女から女性への道のりだな」
「どうしたらいいのでしょう・・・」
「さて・・・」
「責任を取ってください」
「ええ、私がなの」
「はい。こんな気持ちにさせたのは先生だから」
「それは…何と言うか…困ったことになった」
「今の私の気持ちが怖いです」
「それを大切にして愛する人に接しなさい」
「ふーん」
 由美の納得し難いというような声が響いた。
「君がしたいと言っていたのは純愛ごっこだろう。要するにプラトニックラブなのだよ」
 大木田は若い女性の編集者に色仕掛けの原稿取りをされた事はしばしばだった。若かったがそれらの誘惑には屈しなかった。だが、今の状況をどのように判断し解決するかを考えていた。
 歳とともに大木田は異性への興味は増していた。若い頃よりその欲望が増していることに愕然とした事はしばしばだった。なぜ、と言う混乱があったのだ。これは理性では片付くものではなく、無性にその場面を書き飛ばすことがあった。それは年寄りの自慰なのだと
判断していた。
由美は体をもたらせてきた。車との振動で揺れていた。大木田はそのまま何もせずにじいっと受け止めていた。
大木田は理性と戦っていた。
「先生、すきになってはだめですか」
「その感情は私のような年寄りに対してではなく若い青年に向けた方がいい」
「私の母は私と同じ年に父と駆け落ちをして・・・」
「問題が違うように思う」
「だめですか」
「まず私のところに来た目的を達成してからにしてはどうかな」
「いいんですか」
「後輩に立派な戯曲を書いて全国大会へ行かす事をまず考えよう」
 由美は少し考えていた。
「わかりました、私やります」


空港のお粥は二人を満足させた。空港のロビーの外れに食べ物の店が沢山ありそのなかにお粥の専門店があった。おかゆを中心とし色々なメニュー創られていた。一度東京からの帰りに空腹を覚えて軽いものとして食したことがあった。胃には優しい、それに米の味を取り込んで美味しかった事を記憶していた。もうその店はなくなっているかも知れないと言う危惧を感じたが行って確かめようとしたのだ。
「おいしい、 初めてです。御馳走様でした」
「昔の人達はみんな食べていた。ここにあるメニューはその人たちが創ったものをここでだしている。ここにきて思うのは私も日本人であるという実感だ」
「先生が食べたいと言うのなら作ってみますか」
「ご飯は簡単だか、お粥は難しいぞ」
「パソコンで検索してレシピを取り出して・・・」
「その手があったか、私は玄米をとろとろに煮詰め溶かせ塩味が好きなのだか」
「やってみます、先生のために」
 由美は眼をきらきらと輝かして好奇心のなかにいた。
 これで少しは落ち着いてくれることをねがった。
 タクシーに乗って山を下りて県庁所在地の市に行くことにした。この空港は山の中腹を切り開いて作られていた。
 まず本屋の前で降りた。
「読みたいものがあれば買えばいい」
 大木田は由美にそう言って植物図鑑や薬草の本が並んでいるコーナーに向かった。
 自然の中での食物は皆薬草なのだと言う事を守山との話で語っていた。その植物がどのような症状を整えるのかは意外と解明されてはいない。だが、その草との関係を深めながら科学的には証明されないが実例を基礎にして作られたのが薬草なのだ。言ってみれば未来を切り開いたという事になる。
 大木田はその手の本を手当たり次第買い求めた。
 由美も抱えられないほどの本を両手で支えながら近づいてきた。
 大木田はそれを宅配してくれるように頼んだ。
 帰りは電車を乗り継ぎパスを使う事にした。
 それは由美に教えたい事があったからだった。
 電車は立っている人はいなかったが乗客はほぼいっぱいだった。
「君、今なにを考えているのかな」
 大木田はうきうきしている由美に声をかけた。
「先生とデートするのは初めてで少し昂奮しています」由美は大木田をじっと見つめていった。
「その心のときめきは大切だが、創作をしようとする人はそれではだめだ。ます乗客の服装、貌、佇まい、などから人々の生活と家庭と、どのような考えを持っているのかを想像し、人物像を作ることを繰り返さなくては書けないものだ」
  由美はじっと聞きながらそうなんだと言わんばかりにうなずいていた。
「それが箱書きをする時に必要となる。単純な「ありがとうございます」と言う台詞もその人の全人格から出るもので、総ての人が同じ思いではない、だから、行きかう人を観察しその人の人生を創造する必要がある」
「なんだか自信がなくなっていく…」
「誰でもそんな事を考えては書いていない、が、それが必要でその訓練が大切であることにきづくものだ、また君には難しいかも知れないが、それが物書きの始まりであるとは言える」
 由美は帰るまで何も言わなくなった。


  自宅に帰るとすっかり暮れていた。活気のある場所に言った所為か何か昂奮していた。人間は時には居場所を変えることで心ときめかすことが必要であると思った。
 由美に風呂の支度をしてもらい湯船にっかりしばし呆然として全身を弛緩させた。ゆみにあたえたとしゅ句多勢は中中出来そうになかった。あたりだ、専門家が学ぶ時にだされる提出物がそれなのだから、由美のように演劇を少しかじったものには無理な事は分かっていた。
「最初からなのか」
 大木田は湯船から立ち上る湯気の中で思った。
 
書斎に入り妄想の中で遊んだ。書く者はその妄想がなくは書けるものではないと言う習性を捨て切れていなかった。
 大木田は彼が過ごした年月を回顧していた。本は無論乱読を重ねた。活字を詰め込んでいた。映画は日本映画の場合は耳栓をして見た。そして、もう一回は耳栓をはずしてみた、役者の台詞を自分でいいながら見た。自分で台詞を考えるためだった。表情とやりとりで正確にとらえることが出来るまで続けた。外国の物は字幕を見ないでじぶんでせりふを付けた。それは台詞の勉強だった。また、演出の勉強にも繋がっていた。あの頃の生活は貧しかったが苦しいと思ったこともなかった。むしろ充実していた。たのしかった、それは若さなのかも知れないと思う。
 人間の心、悲喜こもごもを理解しようと浅草に通った。その事が彼を作家へと引き上げる結果になったと思っていた。そこには何も隠さず裸の欲望だけが渦巻いていた。新橋演舞場に通いそこの先生の雑誌に参加して教えてもらった。 
  
もう半世紀前の事だ。が、それは昨日のようによみがえるのだ。
 その歴史は大木田に取って貴重な財産であった。

その精神の遊戯を打ち破ったのはノックの音だった。
「先生、入っていいですか」
 由美のこえが大木田を現実に帰した。
「今日はもういいからお休み」
 大木田は少し不機嫌そうに言った。
「今、今日一日の事を思い返していたらなかなか寝っかれなくて」
「そんな日は、眠らなくていい。私が言ったことを覚えるまで繰り返し繰り返し思い出して覚えることだな」
「先生、入っていいですか」
 そう言って由美はドアを開けた。

由美は膝を付いて涙をいっぱいに浮かべて大木田を見つめていた。
 大木田は何か異様な感じを持って受け止めた。
「どうしたのかな」
 その声は何か大きな問題を抱えることに対しての驚きを含むものでぁた。
「お母さんが浮気をしていて、私も親父さんとは仲が良くはないのです。もうあの家庭は終わりなのです」
「そんなことが、『糸車』の時から何かがあるとは思っていたが・・・」
「帰りたくはないのです。二人は罪のなすりあいをしていて、私の居場所はないんです」
「分かった。明日でも行ってご両親と話をしてみよう。もう心配はしなくていい、どうにもならなかったら君を私の養女にしてもいい」
 腹立ち、不倫はそこに子供がいれば最悪の状態を生み、その子にとっては人間不信を招くことになる事を大木田は知りつくしていた。
 由美は大木田の胸に飛び込んできた。その髪をなでながら、
「辛かったんだね、だが、君の演技力は・・・いいや、私が見破りその心を聞いてあげなくてはならなかったのだね。そのサインは何度も何度も出していたのに」
「先生」

     9

  大木田は次の日に由美の両親にあった。
  二人の言い分は自己保身の物ばかりで子供のことなど考えてはいなかった。そこには歩み寄る事はなかった。
 年端もなく激情で結婚し若さで突っ走った二人に年の巡りは非常にも本能の目覚めを与えた。
これでいいの、と言う理性を生んだ結果、そこに心の隙間が生まれ、男は欲望に負けて浮気をし、女はその事で復讐するために不倫をしたという事だった。二人の溝はいくら話を尽くしても埋めることが出来ないところまで来ていた。
大木田は茫然としてその場にいた。何も言えなかった。言うべきではないと思った。人間の心の不確かさを再確認させられた。
 二人は離婚を決定させていた。子供をどちらが取るかと言う話になっても、いらないと言う事だった。
「そう言う話だと、私がお預かりして養女として育てると言う事はご理解いただけますか」
 二人は子供のことなど考えられないのか、それでいと言った。
 不倫、する人もされる人も地獄を味わい人格を破壊されるものだ。ここに、破綻者がにらみ合っていると思った。
「何か、そちらの要望がありますか」
 大木田は事務的に言った。
 怒りで思考が伴わないのかそれは無視された。
 この様な場に付き合う事は時にあったが唯ただ疲れるばかりだった。
 大木田は東京の友人の弁護士にこちらの弁護士を紹介してくれるように頼んだ。
「何か問題でもあるのかね、お前さんの事だ大きな荷物でも抱え込む気ではないだろうな」
 と心配してくれた。
「ああ、少しな。これも前世でいいことをしなかったことの罰かも知れない」
「何時から、そんな非現実的な事を言うようになったのだ。何かあったらそちらへでむいてもいいぞ」
「大先生にご足労はかけられまい、不倫で離婚する家のこの引き取り手がないので養女にと考えている」
「それこそ罪滅ぼしだわな。いいや、罪つくりなのかもしれんが」
「その件で一度息子や娘に会いに行くつもりでいる。その時、馳走をするよ」
「ああ、待っている世の中を甘く見ない方がいいぞ。
お前さんは夢を食べて生きてきた、僕は現実を世の中の決まりのなかで生きてきた、その違いは知っておいてくれ」
 電話を終えて大木田は頬をゆがめていた。
 周囲の山並みが褐色に色を変えていた。近いうちに由美を連れて東京に行くことにした。鮮一郎にも加奈子にも合わせ了解を取らなくてはならないからだった。別れた夏美には言う事ではなかった。
 少し路を買え『糸車』へ足を向けた。近づくとコーヒーの焦げた香りが漂っていた。
 この喫茶は何時も暇だがよく潰れないものだなと思いながらドアを引いた。
「いらっしゃい、もうそろそろかなと思っていました」
 マスターの少し弾んだ声が聞こえた。
「昔客のいない喫茶店と言う作品を書いたことがある」
 大木田は笑いながらいつもの席に着いた。
「読んでみたいですね。こんな辺鄙なところでコーヒーを売るなんておかしいでしょう。これも税金のがれてとこです。あれ、言ってなかったですかね。ここが開発された時に山や田圃を取られ何かやって赤字を出さないとと思い趣味でこの店を出したんですよ」
 マスターは饒舌に喋った。
「そんな事だろうとは思っていたよ、カウンターの後ろの部屋にはカメラかな、絵具かな」
 大木田も冗談を口にした。
「あたりですよ、こんなことをしていると無性にカメラをいじりたくなりまして、カメラ担いで走っていますよ」
「いい身分ですな」
「と言われる先生もひと山に薬草を植えているというじゃあありませんか」
「ひと儲け、と考えてなく、これが人様に役に立つかなと」
「なんでしたら内の山も買い取るか使ってくださいよ」
 そういいながらコーヒーを淹れて大木田の前に滑らせるように止めた。
「ここにはそんないい話が一杯にあるんだね」
 大木田はマスターとの話でなんだか心がいやされる気がした。
「気候は温暖で山海の珍味は豊富、こんなところにいては我儘に育って皆に鼻つまみにされましたよ」
「東京、京都・・・」
「いいえ、北海道でした。これでも獣医の免許は持っていますが・・・コーヒーを淹れて暮らしています」
「人には色々な生き方があるから面白い、そうでしたか・・・」
「馬に似ているでしょう、時にはたのまれて出産に立ち合ってますが」
「ここにきてよかった、美味しいコーヒーを頂けるし、動物の事も勉強が出来るとは」
「買い被らないでくださいよ、木に登る方ですから」
「それもいいね、糸車には不思議なマスターがいた・・・」
「こんなところに疎開をしてくださった、文豪がいた」
 二人はやりとりをすることで何かが生まれているように思った。世間に背を向けた男の挽歌のようであった。

由美は今日の話し合いには絶対についていかないと頑固に言い放っていた。大人の男と女の醜い心に付いていけないと言う事だった。もう、腹を決めているようであった。まだ大人に成長はしていない心になにか楔が打ち込まれたと言う気持ちだろう、人間の本能から生まれたものへの拒否なのかも知れない、何もかも捨てても女ならどこでも生きていけると言う女性独特の判断も生まれていることだろう、大木田はそのように思いながら家路に就いた。
少し坂道を上がる。そこから大きな欅が見える、それが大木田の家であった。
 由美が走ってきていた。外で待っていて大木田の姿を
見つけての行動であろう。居ても立ってもいられないその思いがそうさせていた。
「せんせいーーー」
 声が近づいていた。
 由美は大木田の首に抱きついてきた。
「心配する事はない、話は付けてきた。後は弁護士に任せるだけだ」
 大木田は優しく頭をなでながら言った。
 由美は泣いていた。
「君を東京の息子の所に預けることにした。そこから大゛学へ行きなさい」
「いやいや、先生の傍から離れない」
「東京には私の友達も弟子たちいる。面倒は見てくれる。専門の勉強もできる。そこで人間とは何かをしっかり勉強して物書きになりたければなればいい。人には色々な道があり君の前に広がっている、その前で好きな道を選べば良い。今まであった事は忘れること、だが、両親に何があろうと君を生んでくれたという感謝の思いは忘れてはならない。それを忘れるようではなにをやっても成功はしない」
「そんなに決めつけないでください。私は私の心に忠実に生きたいのですから」
 由美は大木田をきーっと見つめて言った。
「東京で勉強して、疲れたら帰ってくればいい。沢山の人と出会い、話をして、別れる。人間とはそこに大事な瞬間がある。その瞬間から学ばなくてはならないことがある。それは大学の学問より大きいかも知れない。人間は常に未知の世界と時間を歩くものだ。それをぜひ君には知ってほしい」
 大木田は精神の疲労がそう言わせていると思った。
「君の人生において二年や三年のブランクを気にする事はない。むしろその事で成長することもある。生きると言う事をそこで知ってほしい」
「ああ、夕飯を作ります。何がいいのでしょうか…」
 由美は何かを振り切るように茶化して言った。
 大木田は由美の心の中を見つめていた。
 そうでも言わなくてはこの場の話は尽きないと考えたのだろう。
「近いうちに上京する事にしよう。学校には私が連絡をしておく」
「何もかも一人で決めないでください。私の考えも聞いてほしい…」
 大木田は一人で走り過ぎたと思った。
「分かった、今夜話し合おう」
「そんな先生大好き」 
 由美は走って家の中に消えた。
 その後ろ姿を見て、由美の不幸をどうすれば少なくできるのかを大木田は思った。
 風が出たのか木立がざわめきだしていた。
 大木田にしてもこれから解決しなくてはならないことの多い事を実感していた。
 由美は大木田と暮らしだして、どのような味覚を好むのかを掴んでいた。
 大木田は書斎で鮮一郎にメールを書いていた。
「先生出来ました」
 由美がドアの向こうで言った。
「書斎にお持ちいたしましょうか」
 大木田は振り返り、
「いやそちらへ行く」と言った。
 食卓の前には野菜サラダと焼きそばが並べられていた。
 二人は寡黙に食べた。食べ終わってお茶を飲みながら大木田は言った。
「君の意見と希望を聞くことにしようかな」
「先生の私に対するお気持ちは本当にありがたいと思っています。東京の大学で勉強させていただけるなんて贅沢だと思っています。私が先生の弟子になりたかったのは先生をより深く知り人として先生のようになりたいと言う事からなのです。今までも先生の言葉のなかに含まれる理論や知識を聞きまして考えることの幸せを感じてきました。父と母の離婚は避けられないこととして考えています。先生が許して下さるならば弟子としてここで先生の動き、息遣い、会話から先生の言われる人としての事を学びたいと言うのが希望です。先生が言われる多くの人との出会い、話し合い、そして別れから得るもの以上に先生から人生を吸収してみたいのです。それではだめですか・・・」
 由美は真剣に話し出したが終わりになるにつれて声が潤んで来ていた。
 大木田は由美の考えは間違っていない事を思った。が、年寄りとは言え若い女性が一つの屋根の下で生活しているとなると、例え田舎とは言え色々と批判は生まれるであろう、心ないうわさも流れることを危惧する気持ちもあった。
「分かった。私は老いていても男だ、君は幼いと言っても女性だ。非難も下卑た噂も広がるだろう、その事に対して耳をふさぎ、私の生き方を見つめ、私の出す指示に従い宿題をこなし、平然と生活が出来ると思うのかな」
「できます。ここまで届いていませんでしたが、父と母のことの悪い噂の中で虐められて育ちました。あの家には私の空間はなく、何時自殺をしょうかと考える日々を過ごしてきました。糸車で馬鹿な事をしていたのは自分をその地獄から解放させストレスを解き放つことでもあったのです。先生が毎日糸車に寄られてコーヒーを飲まれている事は調べて知っていました。芝居をしていました、きっと私は主役になってみせる、そのためには先生と師事する人が必要であったのです。今、先生のお考えを動きと言葉で私の心を膨らませることが出来ているのです。後輩に台本を残したいと言うのは意地なのです。私をいじめた、さげすんだ、そして捨てた両親に対しての復讐なのです。・・・こんな考えを持ってはだめですか。私は先生の言われるような人間になりたい、それにはやる事をやってそこから新しく出直したいのです」
 由美は涙を流しながら訴えていた。
 大木田はその言葉を真摯に聞いた。
私の知っている事を小娘に託そうと言う考えも生れようとしていた。危険を伴うことだが、何もかも捨ててここに来た、これも自分が生きて最後にこの女性に自分の考えを譲る為なのかも知れないと思った。
「分かった、君は私の養女になり、私は今まで生きて感じたすべてを教える。それでいいのだね」
「ありがとうございます。私は打たれずよい女ですよ、先生」
「そのようだな。そうなれば善は急げだ。車の免許をとりに言ってはくれまいか」
「車ですか」
「僕はもうここに来る前に免許は返している。この田舎では車がなくては何もできない。君を育てるために
日本の素晴らしさを見せたい、感じ取らせたいと言うのはどうかな」
「うれしい、東京に行かなくてもいいのですね。免許証を取りに行けばいいのですね」
「そうだ、だが、学校だけは卒業してほしい」
「任せてください。・・・だけど、先生の養女になると言う事は親子になることなのですか」
「そうなるな」
「それはちょっと困るのです」
「なにが、その手続きの弁護士はもう雇ったぞ」
「それは、困るんです」
「何か不満でもあるのかな」
「親子では結婚が出来ません…」
「なに、そんなことを考えていたのか」
「はい、私は先生の子供を産みたいのです」
 大木田は頭を抱え込んだ。

 風が強くなったのか、冷え込んできたのか二人の暮らす周囲には月明かりのなか風花が舞っていた。
 それは祝福なのか、誰も知らないことだ。


                        終わり



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